陶氏館(平城)陶氏の居館跡

概要

陶氏の居館跡きょかんあと

 この周辺は現在平城と呼ばれています。これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに由来するものです。陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭氏(わしず)を撃つため<周南参照>に吉敷郡陶(現・・山口市陶<山口参照>)からこの地に移リ住み、やがてここに居館を構えたとされています。南方の国道二号線付近に七尾山城、北に上野の城山、別所城などがありました。一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えておリ、その本拠地が現在の防府市の富海、或いは、周南市の古市にあったとされています。また、近くの海印寺には、陶弘護ひろもりの次男の興明おきあきや興房おきふさの嫡男で晴賢の兄にあたる興昌おきまさの供養塔があリ、大切にされています。

平成十六年九月 周南市教育委員会

陶氏居館址碑の文

 陶氏は大内氏の流れをくむ右田氏の祖、摂津守盛長五世の孫弘賢が吉敷郡陶村の領主<山口参照>となり、よって陶を氏とした。二代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。居館を大字下上字武井の岡の原に築く、これを、平城(ひらじょう)と云う、もと富岡小学校の敷地であった。平城の南に続いて一段低いところを「にいいどん」と云い、即ち新殿の意で陶氏が新館を建てた所と伝えている。古社上野八幡宮は正平十年(南朝一三五五)陶弘政の建立したものと伝えている。上野の城山は、また陶氏の一支城であり建咲院の裏山にも七尾山城を築く。四熊岳(五〇四メートル)の麓を通り、花河原の西に陶氏の本城若山城(二一七メートル)がある。大手門に当たる東南方は福川に属し、搦手の北西と西南は夜市の地である。

※集合写真:小学校入学当初はここが「陶氏の居館跡」とは知る筈もない。現在、富岡小学校は川上小学校と統合され菊川小学校に。

  • はてなブックマークに追加
2010年03月12日