下田しぐれ(七義民の碑)

仁保のために活躍した七庄屋

 七義民(七庄屋)をまつる 六地蔵様とその墓碑は、山口 市仁保の高畠地区にあります。

  享保2年(1717)の春、 他地区の農民たちが入会権の ない仁保の山に入り、柴草を刈り取ったことから「下田し ぐれ」の発端となる事件が起 こりました。その時は仁保の 者が発見して、刈り取ってい た柴草を没収し、他地区の庄 屋にこのような仕儀がないよ う書状を送 りました。 しかし、そ の後4度に わたり侵入 して柴草を 刈り取り、 4 度 目 は 138人と いう大勢の 者が大挙し ての不法侵 入でありま した。

  思い余っ た仁保の庄 屋たちは、 この事を山 口 の 勘 場 (役所)に 申し出まし た。当時は 他に肥料が なかったの で、山の柴 草は農民にとって死活問題でした。しか も、仁保の上ヶ山、岩倉山、 木戸山、並山の4か所に限っ て、それらの山年貢は米に匹 敵するだけの高額な利金を藩 に支払っており、庄屋たちは もちろん、その下で働く農民 たちも必死の提訴でした。し かし、勘場の役人はこうした 農民の訴訟に耳をかしません でした。

  怒った仁保の農民が各所で 蜂起し、集まった群衆の数は 800人を超え、一揆と化し ました。一揆は訴上するため、 山口の藩役所を目指しました。 このことを知った藩役所は大 いに驚き、各役人がその場へ 急行。一揆の者と代官の話し 合いの結果、代官が農民たち の熱意に負けて、一揆は解散 するという結末になりました。

  その後、仁保側が提訴して いた上ヶ山、岩倉山、木戸山、 並山の4か所については、仁 保の農民が主張していた入会 権のことが認められて勝訴に 終わりました。しかし、仁保 の七人の庄屋たちは提訴した ことと、一揆の暴動を鎮圧で きなかった事を理由に斬罪さ れることになりました。享保3年(1718)、役人は七 庄屋を、当時下田(高畠)に あった見性院へ預けようとし ました。当時高い権威をもっ ていた僧侶が嘆願すれば助命 も考えてのことであったかも しれませんが、見性院の住職 は「お寺の境内を血でけがさ れては困る」とその申し出を 拒んだため、役人は仕方なく 七人の庄屋を下田河原へ引き 立てて、そこで斬首したとい われています。

  後世、仁保の人びとは、い われなき冤罪で刑死した七庄 屋を義民として崇め、その徳 を「下田しぐれ」にあらわし、 今に語り継がれています。

参考資料:「仁保の郷土史」

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2010年08月07日