二の丸様(周姫)之墓と毛利本家墓所(香山公園)

宝篋印塔は周姫之墓(二の丸様)享年32、周りを囲む玉垣は実際のものではなく大正7年11月に、ここに改葬された時に新たに造られたものと思われ、実物は善生寺・西方寺(周慶寺)に残されている。

銘文:正面右 慶長九甲辰年、正面中央 栄誉周慶大姉、正面左 八月初一日、梵字も鮮明に残っている。

戒名に誉号(よごう)がつき梵字も阿弥陀如来(キリーク)にて浄土宗と解る。

院号の快楽院(清泰院とも)の銘は無いが、この快楽院とつけられたことに変な妄想を抱く愚か者がいるようだが、「かいらく」ではなく「けらく」と読み宗教を尊崇する言葉であるので悪意の文字では無い。

大正に移されてはいるが、側室とはいえ輝元の代を継ぐ嫡男(秀就、弟は徳山毛利家)を生んだ母、裏山の案内図もないような処に移すとは如何なるものか?

近年、灯篭等も移されているが本来の菩提寺の意味が解っているのか?歴史家の恥知らず。歴史は過去の人物で現在と違い宗教・神社仏閣(菩提寺)と強い関係にあり亡くなった歴史人物はお墓に眠っている。現存するお寺等の殆どは権力者の菩提を弔う為に建立された建造物で現在でいえばお墓を建立するのと同じ意味に値する。その聖地から特別な理由もなく建立部材を移す等、考えられない。現在の一般の方が遠方を理由に墓を移転するのとは大きな違いで、昔は菩提寺そのものがお墓に値するもので移すのであれば寺全部を移さなければ意味がない。多くは新たに供養塔を建立しお墓本体等を移す事はしない。金や名誉のために歴史人物の遺構を移し見世物にする事に憤りを感じるのは管理人だけだろうか?

 

  • はてなブックマークに追加
2010年04月02日