秋穂のロミオとジュリエット-吉岡新太郎の心中墓

概要

『秋穂のロミオとジュリエット』吉岡新太郎の心中墓①  遍明院峠の禅光院入口に地蔵様があります。この地蔵様の少し北側に心中墓二基と石燈籠一基があります。その男の名が吉岡新太郎で女が難波(大阪)のおまさ、その話は次の通りです。八幡隊がここの菩提寺(禅光院)に駐留して来た文久三年暮、その隊中にあって大変に元気のよい司令がいました。彼のかける号令が二島の大里にいた奇兵隊にまで届いたといいますから、意気盛んな青年であったことがわかります。その後各地で戦ったあと八幡隊は集義隊と合併して鋭武隊と名をかえました。それは慶応三年(一八六七)二月のことです。その年の冬薩摩と長州の兵は破竹の勢いで幕府軍を追いました。よって大阪にいた幕府軍は関東方面に退去しました。その頃鋭武隊は備後国尾道から大阪に上阪して来ました。そして翌慶応四年(この年が明治元年にあたります)正月には大阪に着いて、市内の寺に合宿しました。そのうちの二小隊は泉州堺の中浜一丁目井上関右衛門という鉄砲鍛冶の家に滞宿しました。その時のこの隊の司令が吉岡新太郎です。吉岡等が泊まった井上関右衛門家は毛利元就以後毛利家の御用達をつとめた藍谷与三右衛門家の弟に当たるので毛利藩とは特別の間柄でありました。その時に対幕戦の功を賞せられて朝廷からお酒四斗樽一挺が届けられましたので、中浜一丁目では戸毎に土器をもって来て、天子様より頂戴したお神酒が頂戴できるといって大変な悦びに沸きました。そこで吉岡新太郎は酒樽をぬき、柄杓で土器にお酒を分けて町内の人々に配りました。井上関右衛門はお神酒開き祝いといって魚や肉を料理してご馳走し、三味線や琴まで持ち出して興をそえてくれました。

『秋穂のロミオとジュリエット』吉岡新太郎の心中墓② 一方大阪での集義隊は西御堂筋の町の警護に当たっていましたが、この泉州から引き揚げて来た二小隊が到着した時には既に江戸に向かったあとでした。そこで吉岡隊は間もなく神戸に出て同年五月帰国を命ぜられ、十三隻の船で秋穂浦に帰り着きました。そして二島の大里にあった鋭武隊屯所に帰りました。このことは元集義隊の隊員で、後に八幡隊と合併して行動を共にした中津江出の小野鼎三が書き残したものの中にあり、この吉岡が大阪にいたほんの僅かの間に見染めたのが難波の商人山邑某の二女おまさであった筈ですから、おまさは何かの事で堺中浜一丁目に来ていて、天子様からのお神酒をふるまう吉岡新太郎の様子を一部始終見ていたものでしょう。おまさは新太郎を慕う心やみがたく、その後を追うて只一人長い船旅の末、秋穂浦に上陸、祇園町海辺にあった旅宿の二階に落ち着きました。新太郎にしてみれば、二人の仲は到底親が許してくれるとも思われず、といって話して聞かせても別れて帰るおまさでもありません。二人は苦悩しました。遂に合意の上、旅宿の二階で心中して果てました。明治二年六月九日のことです。新太郎二十六歳でした。

『秋穂のロミオとジュリエット』吉岡新太郎の心中墓③ 若くして果てた前途のある二人の死に対し、人々は心から同情し涙しました。そして同年九月には秋穂の有志が相談して供養の碑を建てました。石燈寵には寄付者の名前が刻まれています。当時栄えた秋穂浦の面々の名前がこれほど揃ったものは、他にみつかりません。二つの墓石にはそれぞれ「吉岡新太郎信義の墓」「浪花くろがねばし 山邑おまさの墓」とあります。そしておまさの碑の側面には、有富猿石(源兵衛)の追善句が次のように刻まれています。「はるばると たづね秋穂の浦浪に ともに散るとは あわれなりけり」尚寄進者の名前も付記しましょう。有富源兵衛、平原平右衛門、山内休兵衛、山内道祖松、重富隆蔵、松永栄蔵、江村吉九良、江村作兵衛、森繁恒助、上村三十良、米倉孫三良、益富半蔵、当浦何某、上村文十良、萬谷久吉、大坂山村何某 原文「秋穂町の史跡と伝説」

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2010年05月22日