霊光院(五重塔)

山口市指定有形文化財(建造物)霊光院(れいこういん)五重小塔 平成二年六月二二日指定 この小塔は、防府天満宮が境内に五重塔の建立を計画、藩よリ文政五年(一八二二)六月十日に許可が出されたことによって宮市町(現防府市)に住む大工松屋嘉右衛門に塔の建立を命じた。嘉右衛門は本建築に先立ち塔の二十分の一の模型を造ったものです。本建築は天保の改革という藩財政の立てなおし政策が取られ、塔の建設が中止されました。この塔が建設されていれば、高さ四八、一メートル平面六三平方メートルの規模で日本では一二を競う高塔でした。この小塔を造った大工嘉右衛門は、日頃帰依していた山口常栄寺の諦州(たいじ)和尚にこの小塔を贈った。諦洲和尚は隠居して霊光院に住んでいたので、霊光院に伝わったものです。総けやき造りで、総高約二、八メートルで県内では他に類例がなく極めて貴重な建造物です。平成三年に霊光院から現在地に移されたものです。

大悲山霊光院 嘉永六年11月(一八五三)、山口常永寺境内にあった臨済宗霊光院を二島へ移したもの。二代毛利隆元の菩提所として広島に創建(永禄一五五八)され、宝永頃(一七〇四~)に山口に遷座。昭和二十三年真言宗に改まる。

右の柱には「延命地蔵尊」「毛利隆元菩提所」「霊光院」とあり。「毛利隆元」は毛利元就の嫡男長男。第14代毛利氏当主。吉川元春(次男)、小早川隆景(三男)の兄。広島城や萩城を築城した毛利輝元の実父。

春風楼は十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち、文政五年(1822)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし、釿始めの儀を行ったが資金調達中天保二年(1831)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。その後塔の設計を現在の重層の楼閣様式に変更して明治六年(1873)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので当時の面影を偲ぶに充分である。この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で春風楼の名にふさわしい。

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2012年05月23日