持世寺跡(じせいじ)

 概要

「持世寺の歴史」現在、持世寺といえば、温泉か、または部落の地名として一般には知られているが、本釆はこの地に「持世寺」という、名刹が存在していたからである。この寺院としての持世寺は、長保元年(九九九)厚東氏第三代武通が、比叡山の僧、栄久を招いて創建した真言宗の寺で、山号を玲瑠璃山と号し、厚東郡(現在の東、西岐波を除く宇部市、小野田市、楠町)における、最初の寺院であったといわれている。はじめは吉見村の古別所(現在の厚東区下岡、国道二号線と新幹線の交わる地点の北側)にあったが、保安二年(一一二一)現在の古跡の地に移された。そしてこの地において、多宝院、妙用院、無動院、不動院、山之坊、奥之坊と六脇院を有し、厚東氏、大内氏、毛利氏、さては足利氏の加護があつく、特に長門固守護職でもあった、厚東氏第十四代武実は、一時衰微した持世寺を再興し、五町余の田地を寄進した。この時の坪付状(土地の明細を記したもの)に、「宇部郷内田地坪付事」とある、この坪付状にある田地の場所は、持世寺から山一つ越えたところにある、今の川上、北迫、西山にあった。またこの状の「宇部郷内」とある「宇部」の字が漢字で書かれたものでは最古のものである。これは建武二年(一三三五)のもので、今から六五〇年昔のことである。またこの時代に足利尊氏の祈願所ともなり、尊氏の御教書(祈祷を依頼したもの)と、田」嘗町を寄進した正平十一年(一三五六)の古文書がある。つぎに厚軋氏没落後、大内氏もまた代々持世寺の寺領や寺務を安堵(承認)してきた。それは応仁元年(一四六七)大内氏第二十九代政弘の安堵状、永正二年(一五〇五)大内義輿の安堵状、また前述の厚東武実の坪付状の紙の継目に、義輿の花押がおされてある。毛利氏にあっては、元亀四年(一五七三)毛利輝元の安堵状その他がある。かくの如くして持世寺は創建以釆八〇〇余年の歴史を有し、この間地方有数の真言の名刹として存在していたが、元和の頃(一六一五)より毛利氏の加護も次第に衰えて、加うるに寺は再三の火災にかかり、堂塔も仏像も判物もその度に焼滅し、そして無住の有様となり、天保十四年(一八四三)の記録を最後にして、遂に廃寺となった。廃寺となってからは、村人たちはこの地に小堂を建て本尊の観音をまつった。観音堂はその後この地の裏山の小字寺山に移り、さらに現在の小字林に移された。昭和四十六年七日十七日新たに観音像を勧請して開眼式が行われた。その際持世寺伝来の観音像の焼けた頭部は、新仏の胎内に納められたという。このように盛大を誇った名刹が、今日何物も残し得ず、そして歴史も消え去ってしまったが、ただ」こうした中にあって「持世寺文書」のみは、寺跡の西隣にあった井上家が、百数十年の久しきにわたって、代々大切に保管さ虹ていた。これにより持世寺の輝かしい歴史が今日世に出て節警れるようにもた。この貴重な文書を井上家の当主春彦氏の母堂ツルヱ氏が、宇部市立図書舘に保管を依託されて、公の機関において後世に伝えられる処置をなされた。これは「持世寺文童ど二巻にまとめられ、宇部市指定文化財となっている。持世寺村の山深く、かつ霜降山の古城跡の麓に、八〇〇余年の歴史を稀めて廃寺となった持世寺は、布降城の落城、厚東氏の滅亡とともに、わが郷土の栄枯盛衰のロマンとして、後世に伝えられることとなった。今の持世寺は、その寺跡と、持世寺という部落の名が昔の名残をとどめているにすぎないが、温泉としての持世寺は、呪在「上の場」「菊泉ホテル」「原田温泉」と三つの温泉旅館と、一つの場治場「杉野瀕」がある。泉質はアルカリ性、ラジユーム泉(放射能泉)で、神経痛、外傷、火傷に特効がある。温泉の歴史は、建武の時代九州の菊池勢が戦傷を癒した、とかの言い伝え等があるが、「杉野瀕」が最も古く享和年間(一八〇一)頃に起り、原田涼も杉野濠と同じ頃といわれ、 「上の湧」は昭和二十六年、菊泉は同三十五年に創業された。昭和二十年八月、広島の原爆被災者が厚東駅から列をなして多勢、持世寺温泉に治療に来られたと伝え聞いている。

昭和六十年十一月三日厚東郷土史研究会 沖金吾

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2010年05月08日