厚東氏14代厚東武実之墓-浄名寺

南北朝時代

長門守護、厚東氏墓所、隣接する東隆寺にも墓所有

浄名寺 宇部市大字棚井浄名寺

 浄名寺は南北朝時代、長門国守護職であった、厚東氏十四代武実公の祈願所として建立された。この寺は厚東氏菩提所の東隆寺とともに、現存する厚東氏有縁の名刹である。武実公は文武ともにすぐれた武将であった。特に乱世で兵馬倥偬偬の中にあっても、その本拠の棚井に、名僧南嶺和尚を招請し東隆寺、浄名寺、蔵福寺等を開創して、仏法の興隆につとめた。武実公はこの浄名寺をこよなく愛し、法名も「浄名寺殿天庵崇西大居士」と号し正平三年(一三四八)京都において病没したが、遺書により当寺に葬られた。

 浄名寺は創建から約三百年間は、奈良の西大寺の末寺として、厚東氏、大内氏加護のもと、この枢要な地において真言宗の道場として寺運は栄え、寺領も正平十九年(一三六三)の浄名寺領知行分目録書出しの中には、一〇町六反余あったが、毛利氏の時代の天正の頃(一五七三~九一)には、五〇石に縮小された。そして毛利輝元を最後として毛利氏の加護は絶えた。このため寺は衰微したが、江戸時代の初期寛永年中(一六二四~四三)、浄誉了伝上人によって浄土宗に改宗して、念仏教化の寺として、再興された。現住は彰誉戒定が第三十四世として、昭和二十六年に晋山した。

 現在は京都の知恩院を本山とし、清泰山浄名寺と号す。浄名寺には、厚東氏、大内氏、毛利氏時代の古文書を集成した「浄名寺文書五巻」と「浄名寺鰐口、一口」の宇都市指定文化財を所蔵するほか、市指定史跡として寺の裏に「厚東氏墓所」がある。現在の寺の前を走る道は、厚東氏時代には棚井の市がたち、商取引の中心地。正面の高台は、厚東氏居館の「御東館」があった。また、寺の背後には東隆寺と、これをとりまき字名が安国寺、寺脇、普現、門前。東側には蔵福寺、中蔵福寺、東蔵福寺、安養寺。西側には、正方寺、十五堂、報恩寺、堂ノ上など寺にゆかりのある字名が現存し、厚東氏時代には、この付近一帯は、政治、経済、文化の中心地として、長門国守護大名の本拠地にふさわしい一大仏教城下町であったことをうかがわせる。

昭和六十二年十一月三日

厚東郷土史研究会

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2010年05月08日