毛利元就公歯廟(仙竜寺)・乃美大方供養塔

概要

周南市指定史跡毛利讃岐守元政墓所宍戸元続前妻墓所毛利元政(元就七男・右田毛利の祖)は、慶長五年(一六〇〇)十一月の知行配付によって、三丘地方五ケ村四千二百石の領主となりました。元政は三丘広末の地に居を構え、慶長十四年(一六〇九)四月二十九日五十一歳で亡くなりました(法名、天徳性真大居士)。向かって左側が元政の墓で、元政の子毛利元倶が建立したものです。また、右側は元倶の妻(宍戸元続の娘)の実母(元続の前妻)の墓で、織田信長の娘と伝えられています。

平成三年五月十六日指定周南市教育委員会

周南市指定史跡毛利元就公歯廟関ケ原の戦いで西軍は敗れ毛利氏も防長二州に減封となり当時三丘には元政公が来丘して領主となった慶長八年が元就死後三十三年に当たっていたので絶えず身につけていた元就の歯を三丘広末の地に葬って父の冥福を祈った。

昭和四十四年三月三十日指定周南教育委員会

毛利元就公歯廟同夫人宝筐印塔関ヶ原合戦後の領地配分によって慶長八年(一六〇三)毛利元政(元就の七男)が三丘領主となって入部しました。その年が、父元就の三十三回忌と生母乃美の方(元就の側室)の三回忌にあたったため建てれた供養塔です。元政が肌身を離さなかった元就の遺歯が納められています。向かって右が、元就公の歯廟で左が元就夫人乃美の方の宝薩印塔です。

 

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2010年03月13日