神上神社と神武天皇

概要

こうのうえ神上じんじゃ神社
御祭神 主祭神 じんむ神武てんのう天皇 日本国第一代の天皇
配祀神 あまてらす天照おおみかみ大御神 日神、高天原統治の祖神
つくよみの月読みこと命 月神、夜の国を治める神
御由緒
こうのうえ神上神社は神武天皇の聖跡
かむやまと神倭いわ伊波れびこ礼毘古のみこと命 (神武天皇)は、遠大な建国の御計画のもとに、ふな舟いくさ師を
ひきいて、ひゅうが日向高千穂を進発され、長い年月と幾多の辛酸を経て大和を
御平定、かしはらのみや橿原宮において我が国初代の天皇として御即位になった。
このこうのうえ神上の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によってお立寄りに
なり、半年の間をお過しになったあんぐう行宮であり、御東行の途次、暫し安らか
に憩われ、深くみこころに留め給うた聖跡である。

  天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ
  風波に御遭遇、北の方へ吹寄せられたので、ほど近い小島(竹島)にお舟を留
  められた。この時天皇は御舟酔甚しく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。
  里人は種々の薬草を献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると忽ち
  御快くならせられ、「我心たいらかなり」と仰せられ、里の名を「たいらの
  里」(平野)と命名された。
  さらに、浪音のきこえぬ地でお休みのため、水際伝いに進まれると里が
  あり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに夜が明けた。この地は
  海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(見明)という。
  ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かにきこえる静かなところ、
   彼方に黒髪島 仙島などが夢のように浮かぶ瀬戸の海を眼下にした絶勝
   の小高い丘にお着きになった。
  ここにかりみや仮宮の御造営を仰せ出された。
  天皇は、近い高根に登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を
   御案じになった。この時、四匹の熊が地に伏しぬかづ額いたのでこの山を「四ッ
   熊の峯」(四熊嶽)と名付けられた。
   およそ半年、此の仮宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を
   経よ、我は陸地を行かん」と仰せられて再び御進発、安芸国・吉備国
  を経て遂に大和へお入りになリ建国のほうと鵬図は成った。

天皇は、このこうのうえ神上の地に深く御心をお留めになり、御出発にあたって「ちん朕何国
ニ行クトモ魂ハ此ノ仮宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此二祀ラバ国ノ守神トナラン」と
の宣らせ給うた。
里人等はその御旨を畏み、仮宮の地にしう祠宇を建立し、「神上宮」と称して斎祀し
奉った。

皇室の厚い尊崇と、公卿・武門の深い崇敬
一、おうこ往古、当神社及び遠石宮の祭礼に、勅使として宇左津臣命を差し遣わされ、
官者殿と称したが、文政年間、これに代えて木像随身椅像を奉つた。
一、村上天皇は、勅幣造営を行わせられた。
一、矢々部太子が勅願により、内陣一字の修営と、神輿三社を奉献した。
一、藤原あそん朝臣末延卿・橘あそん朝臣近守が神輿を奉献した。
一、足利尊氏公よりの寄進があった。
一、大内家代々、毛利家代々より田畑・山林其他を寄進された。
一、大内義興は、社殿をはじめ、神器神具・武器を献納した。
一、陶隆房は、社殿を再建した。
一、毛利氏の治政となり・就隆・元次・広豊の代にも神殿の造営がなされた。

神社名称の変遷
一、旧記によれば、「神上神武天皇宮」「神武宮」等の称号が一般に用いらていた。
一、後に“日月の神”を配祀して「神上大明神」と改められた。
一、明治三年五月、「神上神社」に改称された。
一、大正七年五月、郷社に列せられた。
境内社 いなり稲荷じんじゃ神社 祭神 うかのみ倉稲たまのかみ魂神 五穀の神・商売の神
いわれいししゃ盤余石社 みたましろ霊代 神武天皇御腰掛岩

  • はてなブックマークに追加
2011年01月27日