興元寺(杉元相・元宣の墓所)

概要

父:杉元相(もとすけ)子:元宣(もとのぶ)の菩提寺:興元寺 (周南市大字上一ノ井出5122、天正2年(1574年)元相創建)の正面の山。現在はゴルフ練習場などが建設されている。野上(周南市徳山の旧名)庄領主。居城は現在の徳山動物園前<周南市参照>。

中世期この地は大内氏家臣陶氏が収める。十四世紀陶弘政重臣、野上氏が収めていた。天文9年(1540年)大内家臣、杉元相は尼子氏との吉田郡山城の戦いで元就を援護、小早川興景らととも軍功をあげる。父隆宣の死後、家督相続。天文20年(1551年)大寧寺の変(陶隆房(晴賢)による主君義隆の謀反)~弘治元年(1555年)厳島の戦い経て、陶氏と共に野上氏が滅びると元相はこの地に居館を構え勘解由判官と称し、代わって野上を収め菩提寺興元寺を建立。毛利氏防長経略では山代成君寺山城<岩国参照>にて抵抗するも毛利氏に帰順する。永禄12年(1569年)大内輝弘の乱にて椿峠(富海)<防府参照>で軍功。子元宣は児玉氏元良<広島参照、源太郎先祖>の子(周姫、のち二の丸殿)を娶ったが元就の孫(輝元、当初の主君)に奪われる。元宣は秀吉に直訴する為、大阪に向かうが天正17年(1589年)3月、大島<周南市参照>にて小早川隆景により命までも奪われ、杉氏は20数年で断絶した。継室二の丸殿は輝元の子を身籠り、その子らは毛利宗家(初代長州藩主)及び徳山毛利家の家督(初代は下松<下松参照>)を継ぐこととなる(娘:竹姫は吉川広正室<岩国参照>)。当初は弱肉強食期、二の丸殿は親元児玉家の安泰も案じておろうし胸中は微妙だが、関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防・長門の二国に減封させられ広島城から萩城に移ったが二の丸殿は入城せず山口の覚皇寺にて晩年を過ごし近くの小高い山にて姫山伝説<山口参照>を残す。慶長9年(1604年)8月1日三十二歳で逝去。菩提寺は同山口の西方寺(現善生寺<山口参照>)戒名は快楽院(清泰院)殿栄誉周慶大姉、後に墓所は西方寺から墓石のみ移され(玉垣及び侍女の墓は西方寺に残る)近くの五重塔<山口参照>がそびえる香山公園内、幕末期に大役を担った宗家13代毛利敬親らの眠る長州藩主の墓所<山口参照>の裏手に人目を避けるように建立されている<山口参照>。継室とはいえ初代長州藩主の生母とは思えない扱いと思える。

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2010年03月12日