徳修館

概要

山口県指定無形民俗文化財(昭和五十一年三月十六日指定)周南市安田の糸あやつり人形芝居三丘領主・宍戸氏が毎月二十一日と定めた安田の市は諸固から商人が集まり栄えていました。この人形芝居は、江戸時代後期(文化・天保期)に、安田の市にきた阿波の松尾某という藍染商人が、商売のかたわら村人に浄瑠璃と人形芝居を教えたことに始まる、と伝えられます。その後、毎月行われるようになって安田独特の芸能となりましたが、明冶以降は市が寂れ、円通院で行われる八月七日の和霊大明神祭に毎年奉納されるようになりました。この人形芝居は、浄瑠璃に合わせて、約五十センチの大ききの人形を糸で操るもので、人形の首、両耳、両手首に付けた五本の糸を、一人で操リます。楽器は三味線のほか、拍子木、太鼓、鉦を用います。

山口県教育委員会周南市教育委員会

弁慶穴古墳この古墳は、追迫の熊毛北高等学校の近くにありましたが、山陽自動車道の建設に伴い、昭和六十二年に発掘調査し、その後、この公園内に移築し、復元したものです。この古墳の特徴は①六世紀後半~七世紀初期めものです。②石室は片袖の横穴式で、石材は付近の花崗岩を使用しています。③石室の排水溝は、側石を立てた部分と、素堀りの部分から造られています。④副葬品の中には、山口県内では珍しい鉄器が出土しています。⑤被葬者は、島田川中流を治めていた小地域の支配者とその家族が考えられます。

周南市教育委員会

宍戸親基公碑周南市指定有形文化財(石碑)宍戸親基は、幼名を孫四郎、後に美濃又備前と言い、安政二年(一八五五)二十九歳で三丘宍戸(毛利家一門筆頭、一万千三百余石)十一代領主として家督を継ぎました。親基は、萩藩加判役の要職にあって、元治元年(一八六四)の禁門の変には藩内の鎮静に務め、馬関戦争においては事態の収拾に活躍し、以来俗論の鎮撫に奔走しました。また、領内の邑政を改革して緩急に備え、特に徳修館の経営に力を注ぎました。この碑は、大正四年親基に従四位が贈られたことを記念して、大正十四年三月旧臣たちが建立したものです。

昭和四十六年二月四日指定周南市教育委員会

山口県指定有形文化財(建造物)徳修館昭和五十一年十一月五日指定所在地周南市大字安田字天王五六九ノ一徳修館は、三丘領主宍戸氏第八代宍戸就年公が文化六年(一八〇九)に創建した学校で藩士子弟を教育した。現在の建物はその後、弘化三年(一八四六)第十代宍戸元礼が家老末兼佐織に命じて萩の明倫館に模して同館の本堂(聖廟)として新築したものである。江戸時代の郷校実状を残した県内唯一の郷校遺構である。その後、徳修女学校となり幾多の才媛を出し、時代の推移の中で学制、校舎は変遷したが、聖廟のみは常に変わらず、昭和二十三年以降、県立熊毛北高等学校に発展し、現在に至っている。

山口県教育委員会周南市教育委員会

  • はてなブックマークに追加
2010年03月13日