天野屋利兵衛

概要

天野屋利兵衛の墓(伝説)

忠臣蔵や歌舞伎で『天野屋利兵衛は男でござんす』と名台詞で名高い任侠義商天野屋利兵衛は四郎谷出身で父は神村将監といい、禄高千百石の毛利徳山藩家老職であったが、ある日、藩の仕で富田川橋を馬上ゆたかに通過した折、川下で藩主の若殿は釣魚中、それとは知らね将監は若殿の怒りをかい家老職没収となった。将監は浪人となリ知人頼リに大阪方面に旅立つが数年後、故郷に近い四郎谷に在住、妻も病死とあって同地の旧家河口家よリ後妻お萬を迎え一子喜平をもうけた。

幼名喜平は大阪商人(運送業)天野屋の認むる所となり養子となって名も利兵衛と改名した。天野屋利兵衛について幾多の説もあるが父将監は老いて京都方面で、また、利兵衛も同方面で母お萬に先立ち、お萬は両人の分骨を持ち帰リ此地に供養したといわれる。

平成元年三月 戸田地区コミュニティ推進協議会

一心山仙念寺

 戸田心光寺八世住職教誉含秀上人が元禄元年(1688-1703)中、隠寮として建立する。隠寮とは和尚さんの隠居所のことである。元禄三年(1690)に心光寺本堂修復がなされていることから、その後の隠寮と思われる。防長寺社由来にも「四郎谷村観音堂有之候、当寺抱の内一心山仙念寺、本尊併仏具付物隠寮附壱ヶ所有之候、古エより当寺の末寺抱ニ候事」とある。明治時代迄は尼さんが居た。

 湯野後山にある常照院の大泉和尚が元禄四年(1691)、湯野戸田に七所観音を開いたが、四郎谷専念寺は第六番霊場とされ信仰の厚かった往時が偲ばれる。

 四郎谷は応神天皇、神功皇后ゆかりの地であり、七所観音の歌に「海原や沖こぐ船にたのめかし、大悲の光にちやさこの寺」と歌ってある。

平成元年三月 戸田地区コミュニティ推進協議会

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2010年09月03日