蓮華寺-鶴岡周防守之墓

概要

武士の意地を見せた金子周防守壮絶な戦いの足跡は、今もこの地に残る時は室町の時代、天文19年(1550年)大内氏がこの山口を治めていたころ。当主の大内義隆は、現在の周南市福川の若山に城を築き、拠点としていた家臣・陶晴賢の裏切りにより追われる身となり、ついには現長門市の大寧寺にて最後をとげるのでした。そのころ、若山に近い須磨村(現在の須金)では陶軍の侵攻を食い止めようと、大内氏に仕えていた鶴岡周防守を始めとする広実、岡、有吉、文屋、藤井、そして金子周防守らの連合軍がまさにこの兼田、長渡路において必死で戦っていました。しかし、陶軍の追撃は激しく、頭の鶴岡周防守は長谷茶臼山の戦いにおいて戦死。天文22年(1553年)ついに須磨村は陶軍に攻落されるのでした。その後、陶の時代は長くは続かず、厳島合戦で陶晴賢は毛利元就に敗れ、ついでその一族は長穂の龍文寺にて滅ぼされ、最後に残った残党、山崎伊豆守らは須々万の沼城において最後の抵抗を試みたものの、弘治3年(1557年)3月3日に攻落されたのでした。須金地区にある「兼子様」は、金子周防守が陶軍との戦いにおいて、敵の矢が耳に当たり、耳を長く患って死んだため、耳の病気を治す神として祀られたものです。今も「耳の神様」として、地元の人々の信仰を集めています。そばの河川敷には、代官岩という大きな岩があります。これは金子周防守が陶軍と川を挟んで相対し、敵を恐れず、最後までこの岩に立って戦ったと伝えられています。

須金まるごとマップより抜粋

概要

平家武士の望郷と大和国のロマンが生んだ地名~地名の由来~「須金」という地名は、明治22年に町村制が実施され、須万(すま)村と金峰(みたけ)村が合併して新しい村ができたとき、両方の村の頭文字を合わせて誕生しました。須万、金峰とも、現在も大字名として残っています。須万という地名は、次のような言い伝えがあります。平安時代末期、下関・壇の浦の戦いで平家が敗れたのち、平家一族だった中納言雅頼の子、秋月丸がこの地に平家の残党が潜伏しているというウワサを聞きつけ、父を訪ねてたどり着きました。残念ながら父親はすでに亡くなっていましたが、各地をさまよった末に秋月丸はここに住み着きました。彼は歌や詩が得意で、この地の人々にも受け入れられ、多くの人に慕われたと言います。秋月丸のふるさとは、現在の兵庫県神戸市の「須磨」で、遠く離れた故郷を想い、この地を「須磨」と名付けました。やがて簡略化されて「須万」となり、その名は「須磨小学校」など、今もこの地域に残っています。金峰は728年に現在の奈良県にあたる大和国吉野の金峰山の「御嶽」から蔵王権現が分霊されたのをきっかけに、地名を金峰に改めたそうです。呼び方も「御嶽」をもじって「みたけ」になったとされます。

須金まるごとマップより抜粋

概要

先人の苦労が生んだフルーツラシド~梨・ぷどう栽培への取り組み~須金地区は山に囲まれ、勾配もきつく、土地も狭いため、古くから田畑の耕作には不向きな土地でした。和紙づくりが衰退してからは、幹となる産業がなかなか育ちませんでした。そんな中、昭和10年、当時19歳の五郎丸正雄さんが果樹栽培に取り組み始めました。高地ながら錦川も近く、水の便もよいことから「梨などの果樹なら須金に適しているのでは」と考え、先進地だった県内の秋芳地区から梨の苗を取り寄せ、栽培を始めたのです。試行錯誤をしながら栽培に取り組み、数年後には見事な実が成りました。今までの畑を潰しての突然の梨栽培に、驚く人も多かったそうですが、五郎丸さんは黙々と栽培に励み、収獲した梨は徳山の市街地まで泊りがけで持って行き、そこで売っていたそうです。戦後、梨栽培に取り組む人が増え始め、昭和30年代に入ると、新たな果樹栽培の可能性を求めて、ぶどうの生産が始まりました。昭和40年代には果樹園農家もさらに増え、都市部に近いこともあって梨狩り、ぶどう狩りができる観光農園として発展しました。徳山市(当時)による農業構造改善事業で農園が整備され、昭和50年に現在の”須金フルーツランド”が誕生しました。昭和62年からは二次産業として須金産の巨峰を使った「徳山巨峰ワイン」づくりに取り組み、平成10年には組合名を「須金ぶとう梨生産組合」としました。現在、個性的な13の農園があって、農園同士の交流や新品種の研究、販路拡大などに取り組んでいます。

須金まるごとマップより抜粋

概要

和紙づくりで徳山藩の財政を支えた江戸時代大内氏の一族だった鶴岡氏が治めていた時代を経て、江戸時代には現在の山口県は毛利氏の長州藩が治めるようになり、須金は支藩の徳山藩が治めていました。徳山藩は財政の基盤として、米・塩・紙の生産を奨励する「三白政策」を進めていました。須金は和紙の原料となるコウゾ、ミツマタの栽培に適し、良質な水にも恵まれていることから、和紙づくりが盛んに行われるようになりました。一時は徳山藩で生産される紙の3分の2を須金和紙が占めるなど、須金の和紙は徳山藩の財政を支える貴重な存在でした。和紙づくりは次第に衰退し、昭和26年に姿在消してしまいましたが、昭和55年に須金中学校の生徒たちが伝統工芸として復活させ、平成に入って須金和紙センターが完成し、各地からの見学者や体験学習でにぎわっています。また須金には、当時の山口県の中心地・萩と安芸(広島)との国境となる現岩国市美和町を結ぶ、山代街道が山間にわたって通り、江戸期には多くの旅人たちが行き交いました。

須金まるごとマップより抜粋

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2010年09月11日