さすり石

さすり仏の由来
 時は戦国、中国地方最大勢力は大名毛利氏(祖元就)であった。このあたりは家臣杉氏(墓所興元寺)の家来、三巻新左衛門が知行地として与えられ勲功を重ねた。庶民にも愛され親しまれた大将が亡くなると、その死を悼んだ人々は徳を偲んで三巻大明神と崇め石碑を建立した (一五五七年~一五八九年)。その後も石碑に新左衛門の魂が宿ってか、この石を「擦り」体の悪いところを擦ると病が治り、小石で叩いた音の違いにより占いにも役立ったともいう。このことから信仰の対象としてお参りする者が増え続け江戸時代中期になっても絶えることはなかった。徳山藩史には次のように記されている。
 「享保十四年(一七二九年)七月、「浦石」住還端に青石あり病難除けの利益ありとて先月下旬より連日参詣人、数百人が群参する。本日地下人に命じて昼一人夜二人の番人を置き賽米の内をもって番人一人米一升を支給する。」
 現在の松保町、速玉町一帯は以前「浦石」と称され、「うらないいし」から「浦石」の地名をつけたともいわれる。新左衛門は今も庶民を見守り続けている。
 高さ八六・〇幅八四・〇厚さ一六・〇自然石、無銘
 昭和三十二年(一九五七)及び平成二十八年(二〇一六)に道路改良により移設されたが今日でも毎年三月一日に東松原自治会により供養され多くの人たちの焼香や献花が絶えることはなく素朴な庶民の信仰を伝える大変貴重な由緒ある石仏だといえる。

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2016年07月23日