堅田家

概要

仏光山 性梅院(しょうばいいん)(浄土宗)

 この寺は慶長八年(1603)西林山西蓮寺(さいりんざんさいれんじ)

として建立されたが、その後領主の堅田就政安房守(かただしゅうせいあわのかみ)が寛文七年に妻の院号をとって改め菩提寺とした。

 浄土宗総本山知恩院直参、本尊は阿彌陀如来で観音・勢至両菩薩を脇侍とする三尊像のほかに本宗和漢の祖師二軀が左右に安置してある。

堅田家墓所

堅田氏の本氏、は粟屋氏で、粟屋備前守元通の次男で幼名弥十郎、大和守元慶を始祖とする。元慶は小早川隆景の猶子(養子)となり小早川を名乗るよういわれたが、これを堅く辞退して受けず、改めて堅田の姓を賜わった。

元慶は安芸国高田郡内に七四一三八石余の知行を得ていたが、毛利氏が萩、に移ってからは、熊毛郡・佐波郡・大津郡八一六九石余を給され、寄組筆頭として永代家老益田、福原両氏に次ぐ家柄となった。

二代就政の寛永二年(一六二五年)に、領地替えで湯野村一四六七石余の外、戸田・莇地村等を含めて四五00石を領した。それ以後も歴代寄組の筆頭として、蕃政府に貢献し嘉永四年(一八五一年)の石高は六一二六石余に達している。

この墓所には、初代元慶をはじめ歴代の墓石があり、萩蕃の重臣にふさわしい立派な形式と規模を誇っている。

平成十五年四月二十一日

周南市教育委員会

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2010年09月27日