藤掛山城(蔵掛山・鞍掛山)

概要

蔵掛山城址(野上の古城山)

くらかけやまじょうし(のがみ)

 『鹿野町の遺跡』によると、「中世城館跡・梯郭式山城。山頂に主郭、各尾根に郭、堀切(V型)、土塁が残る。主郭の南東側に腰郭、南側の尾根に堀切、平坦地が、南西尾根に小郭・堀切・平坦地が、主郭に近い尾根に堀切・土塁が見られる。東側斜面は急勾配で真下を渋川が流れている(外堀の役目)。南麓の浴に比丘尼跡があって、土塁が残る。」とし、さらに「県内の中世山城の中でも優れたものであり、また、保存状態が極めてよい」という調査結果を報告している。

 『地下上申』に「蔵掛城山」の伝説を掲げているが、「城主吉見某は悪逆非道な城主、三人の家老はへつらいの士で、住民をいじめる」という内容のもので信ずるに足らぬものである。また、吉見某なる人物はいずれの文献にも見ることが出来ない。

 『注進案』には「古城跡之事、蔵掛山、市家より十丁北ノ方、高サ弐丁惣廻り六丁、頂低地ニシテ石垣・池・井戸等有之候。右城主吉見何某居城之由申伝候」として『地下上申』と同じ伝説を載せている。

 『寺社由来』の鹿野中村淨高院の項に「富士掛城山の事、右当寺より東ニ当り、先年江良弾正殿と申城主有之。右の旧跡と申伝候。峰ニ屋敷形有之、相続き風呂屋段、筒井の段、馬やの段、南北にから堀跡、麓に御堂ケ浴、堀か浴、筑かえき、うつほかえき、甲か谷杯と申旧跡御座候事」とある。

 江良弾正とは江良氏の最後の武将で江良弾正忠賢宜(興綱とも)で、この山城は江良氏の築城になるものある。江良氏は陶氏の家人であるが、その系譜は明らかではない、おそらく陶氏開祖以来からではないかと推測される。陶政弘が 、鷲頭氏攻略の命を受けて、富岡の武井(現徳山市[周南市]大字下上)に館を築き、若山城に拠った頃、江良氏もこれに従い、この地方を支配することになったものと思われる。(『大内氏史研究』・『若山城趾調査報告書』)。応永8年(1401)陶弘長か大内盛見の長門国守護代として着府したとき、その小守護代として江良太郎左衛門入道広慶が長府に入っている(『長門国守護代記』)。これが江良氏の初見である。そのほか彦三郎・丹後守重信・藤兵衛尉・三郎・伊豆守・丹後守房栄・昌秦・弾正忠賢宜・神六などの記録があって、いずれも大内氏・陶氏にとって重要な役割をはたしている (『大内氏実録』・『鹿野町誌』)

 賢宜は、この地方の領主として多くの事蹟を残している。天文11年(1542)大内義隆が尼子氏を攻略のために山口築山館を出発したとき、その重臣の中にその名が見える。弘治元年(1555)の沼城の戦(徳山市[周南市]大字須々万)には城主として入城し、同3年の落城の際、毛利氏の軍門に降る。のちに毛利輝元に従い、永禄12年(1569)筑前国立花城(現福岡県粕屋郡新宮町)の戦に参戦して、討死をした。輝元から息子の愛童に感状が出されている(『後太平記』・『注進案』)。

 禅宗本生山龍雲寺は、江良氏の館跡で今も土塁が残る。

歴史の道調査報告書4「山代街道」

-山口県教育委員会刊

-鹿野町域の資料書より抜粋

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2010年04月24日