江良氏居館跡(弾正忠賢宣)龍雲禅寺

概要

江良氏居館跡(弾正屋敷跡)

エラシキョカンアト(ダンジョウヤシキアト)

[本生山龍雲寺]

[室町時代]

 平成3年に実施された鹿野町の遺跡調査によって龍雲寺敷が江良氏の居館跡であることが確認された。

 『寺社由来』には「龍雲院は応永15年(1408)大内氏の開基と伝えられ、金松院仁獄良寛居士'(応永34年3月14日寂)という位牌があって、開基のもとであると伝えられている」とあり。

 『注進案』は「寺伝に曰く、当院は先年大内の末家江良氏の居城地にて、東西五十間、南北五十八間程、四方築地有之、是より四、五丁程下に馬騎馬場と申候て、築地杯前方数多く有之候所、追々田他に相成候由」と記している。

 また『山口県風土誌』は、「按ずるに本寺中古廃絶せし由に寺伝にいえば、其の節江良氏の宅となりて其の後寺家を再建せるか、開基金松院仁獄良寛とあるは江良氏なるべし」としている。

 さらに『鹿野村郷土史』も「開基金松院仁獄良寛居士とあるは江良氏なるべし… 」としている。これらの資料及び・多くの文献を総合して『鹿野町神社寺院史(寺院編)』では「開基位牌については、大内氏ゆかりのものというよりか、むしろ当時この地方の守護代であった陶弘長の家人江良氏のものではあるまいか、その方に強く引かれる。」としている。

『鹿野町誌(平成3年版)』に「江良氏の存亡」を掲げ・江良氏について詳述している。概要を述べると、応永8年(1401)大内盛見が長門国の守護職となったとき、陶弘長が守護代に補任され、江良太郎左衛門人道広慶が小守護代に任命されていることが『長門国守護代記』に記されている。これが江良氏の初見である。以後、系譜は明らかならずとしながらも、弘治3年(1557)沼城の落城によって、毛利元就の軍門に降った弾正忠賢宣まで、大内氏、陶氏の中にあって重要な地位を占めていた、江良一族11名の名を挙げて記述している。この間・龍雲寺を館として用い、蔵掛山、撒骨山、金松山に山城や砦を築くなど、鹿野地方の地頭的、代官的役割をはたしている。江良氏最後の武将弾正忠賢宣について「注進案、当島宰判三見村」の記事中に、「三見郷農家江良弾蔵所蔵」なる古文書を挙げている。それによると毛利輝元が、永禄12年(1569)筑前立花城(現福岡県粕屋郡新富町)の奪回戦を行ったとき、弾正忠賢宣は輝元に従って参戦し討死した。その功を賞して輝元は息子の愛童に威状を贈っている。

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2010年09月11日