引地峠の処刑場跡(美和、中ノ川山一里塚)

概要

中ノ川山一里塚
 この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川に通じる、山代街道に沿って設置されたものである。
 この一里塚について「風土注進案」奥山代宰判秋掛村の項に
   自安芸境亀尾川壱里十六町
   自萩松本弐拾三里
   右は本郷村境中ノ川山ニ在
 と記されており、設置された詳細な時期については不明であるが、正保年間(一六四四~一六四八年)とされている。
平成十五年七月
山口県教育委員会
岩国市教育委員会

岩国市指定文化財
引地峠の処刑場   
当所は江戸時代の圧政のあかしとなる処刑場である。昭和の初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があった。
 血刀を洗った池の跡も、本郷側に残っている。ここで処刑された人達で、記録により確認できるのは次の二十八人である。
 慶長十四年三月二十九日
 「山代十ヶ村の庄屋十人と農民一人」
 -検地反対を訴えて斬首、本郷物川渡にさらされる。検地後、山代の石高は三倍半となる。-
 享保七年十二月二十一日
 「府谷の畔頭一人と農民二人」畔頭(くろがしら)
 -紙の買上げ価格、値上げを訴え斬首。-
 「同日、本郷の者一人」
 -舅に不幸の行いあったため斬首。-
 慶応二年
 「第二奇兵隊、山代出身者など六人」
 -脱走、倉敷騒動参加のため斬首。-
 明治三年四月二十四日
 「諸隊参加の山代出身者七人」
 -脱隊、暴動参加のため斬首。-
 右のうち、農民達のため自らの命をかけて訴え、処刑された人々の心情を想うとき、涙なくして対処し得ない。恵まれた時代を生きる幸せを思い、この地に果てた人々に、深い鎮魂の祈りを捧げたい。
合掌
平成元年四月
岩国市教育委員会

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2010年07月08日