伊賀地-国司氏墓碑

概要

国司氏墓碑由来
(形式)宝篋印塔
八代、国司元武(法名、中庵寿正居士)
 毛村輝元御守役、天正十五年(一五八七年)家続の者なく、弟元蔵に家督譲り、隠居した。
 毛利氏防長移封後は、当主元蔵の知行池・伊賀地村に移住した。
 慶長十五年(一六一〇年)萩の本屋敷で死去。ここ西方寺墓地に葬られた。
九代、国司元蔵(法名、牛庵以吽居士)
 慶長五年十二月(一六〇〇年)周防徳地移封時の当主。毛利輝元の家老。秀就の守役も勤めた。
 知行地は船津・新田・二の宮の三箇所で、当初の俸禄は一六五二石。その後二一八九石(慶長八年)にまで加増された。
 慶長十三年(一六〇八年)の前年休息のため江戸から徳地に帰っていたが、元武に先立って伊賀地村で病死した。
 ここ西方寺に葬られ位牌も安置した。四百年前、江戸時代初期の郷土の歴史を物語るものとして、貴重である。
平成十七年 吉日 西方寺護持会・有志保存会

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2010年07月28日