茶臼山城(富海)

概要

弁慶の打石(玉石)弁慶が通りかかり往来の邪魔になると海へ投げ落としたとされる。石を投げてこの石に当たると光が出ると云われる。

茶臼山古戦場

大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、厳島の戦いで毛利元就に敗れた。大内氏の旧領地を手中に収めた毛利氏は豊後の大友氏と対戦し筑前立花城の攻撃にかかった。この時大友宗麟は、大友家に寄食していた大内輝弘に大内氏再興を図る好機であるといって手兵二千を授け山口占拠を目指して立ち上らせた。輝弘は総大将となり本隊は秋穂浦に上陸し、永禄十二年(一五六九)十月十二日山口へ乱入し旧大内氏の居館に陣地を構えた。これを見た毛利軍は筑豊を放棄し、吉川元春を追討軍の総大将とし一万の兵をもって山口に急行した。輝弘は秋穂浦に逃れたがすでに船はなく、やむなく海岸沿いに東上したが右田岳の城兵の要撃に遭い、辛うじて脱出した一行は、浮野峠を越えて富海に出たが、ここにも一雙の船影さえない。しかしその前方椿峠には徳山野上庄の杉次郎左衛門、海岸からは由宇正覚寺の別当周音が、各々手兵を率いて待機している。輝弘は茶臼山に引き返して最後の抵抗を試みたが、後ろからは吉川軍が追ってくるし、遂に力つきて大内氏再興の夢もむなしく自害して相果てた。ここにある石祀は、正面に大内菱の紋を彫刻した笠石があり、内部には別富と刻まれた自然石がありさらに石祀の奥壁に「大内霊神」と彫り込まれているところから、輝弘の石祀と言い伝えられている。

平成三年一月吉日 牟礼郷土誌同好会 富海史談会

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2010年04月05日