[廿日市市]宮島町

概要

毛利元就ゆかりの地-厳島合戦跡
 1551年(天文二十年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった、毛利元就は1553年(天文二十二年)晴賢に対し挙兵したが戦力的に陶軍の方がはるかに優勢だったため、奇襲の一計を案じた。
 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)5月、島の宮尾に城を築き、陶の二万余の大軍をおびき寄せた。
 同年九月三十日、元就は三千五百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。
 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。

 厳島神社は霊峰弥山を背景に、前面を海に望む入り江に建つ神社建築で弥山などを御神体として祀り、遥拝所をその麓に配置した日本における社殿建築発展の形式の一つです。
 社殿構成は十二世紀に平清盛の造営により、当時の寝殿造りの様式を取り入れて整備されましたが、その後焼失し、鎌倉時代に再建されました。海に建つ木造建物として過酷な環境下にありながら、大内氏や毛利氏、豊臣氏などの庇護に支えられて古い様式を今日に伝えています。
 また、神社建築に加えて五重塔・多宝塔などの寺院建築も加えられ、神道と仏教との混交を示す文化遺産として、世界に類を見ない景観を造りだしています。世界遺産の範囲は厳島神社境内地と弥山北斜面の四三一・二ヘクタールが登録され、それ以外の島内が緩衝保護区域として設定されています。

 古くから日本三景の一つとして知られた宮島は、神をいつきまつる島という意味で、厳島ともいわれる。千数百種の植物の生い茂る弥山を主峰とするこの宮島の山容に霊気を感じて島そのものが神として信仰されたものと思われる。この島は、面積三〇.一七平方キロメートル、周囲は、約三〇キロメートルのほぼ長方形で、最も狭い所はわずか四百メートルにすぎない水道をへだてて大野町と対している。
 よく、安芸の宮島廻れば七里、浦は七浦七恵比寿といわれてきたが、なぎさの白砂に松の緑が映えて限りなく美しい島である。
 海に浮ぶ朱の大鳥居と海中に建てられた厳島神社とが緑濃い山と自然とよく調和して宮島のいや観光地日本のシンボルとして広く内外に知られている。
 市杵島姫命(いちきしまひめみこと)、田心姫命(たごりひめみこと)、端津姫命(たきつひめみこと)の三大神をまつる厳島神社は、今から千三百七十余年前推古天皇の即位元年に社殿が創建され、その後、仁安年間に平家によって現存の規模ができあがったといわれる。
 有名な平家納経を始めとするたくさんの宝物と共に、国宝、重要文化財に指定されるものがきわめて多い。
 また、春は桜、秋は紅葉のこの美しい島にも、厳島合戦として知られる毛利元就が陶春賢を討ったいくさの跡があり、その他の史跡などをあわせて、特別史跡および特別名勝に指定され、国立公園風致地区にもなっている。さらに弥山原始林は天然記念物として、全島これ文化財といわれる、その名に恥じないものがある緑と文化財の島を、みんなでいつまでもまもりたいものである。
昭和二十七年十一月
宮島町
宮島町教育委員会

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2010年11月03日