概要
大元浦(陶晴賢上陸の地)
1554年(天文二十三年)、厳島合戦の前蛸戦ともいえる「折敷畑の戦い」 (廿日市市)に敗れた陶晴賢は、毛利元就と厳島で雌雄を決するため、翌年(弘治元年)九月二十日、岩国から二万余の大軍を率い、この大元浦に上陸した。晴賢は、多宝塔付近から五重搭のある塔の岡へ本陣を移し、宮尾城を攻撃するなどして元就を迎え討とうとした。
しかし、十月一日早朝、元就の奇襲を受けた陶軍は壊滅状態に陥り、再び大元浦へ戻り敗走した。晴賢も三浦房清らわずかな手勢とともに大元浦に逃れ、本拠地の山口で再起を図ろうと島から脱出を試みるが、乗る船もなくさらに西方へ逃れ、もはやこれまでと山中で自刃した。