清水宗治供養塔-野原墓園

概要

清水宗治供養塔 光井沖場の墓地の北側に、清水宗治の供養塔と伝えられる墓がある。この墓の形式は宝篋印塔で、浅江2丁目の清鏡寺にある宗治の墓(昭和58年市指定文化財)よりは、約44cm高い総高188㎝の安山岩製で、近世初期の造立と思われる。 宗治は戦国時代後期の備中高松城(現岡山市)の城主で、小早川隆景(毛利元就の第三子)に従い数々の武功をたてた。天正10年(1582)4月織田信長は中国地方制圧のため、羽柴秀吉の大軍を差し向け、毛利の国境を守る宗治の居城高松城を攻め、備中・備後の2ヶ国を与えることを条件に降伏開城を求めたが、義に厚い宗治はこれを拒絶した。 秀吉は度重なる攻撃にも屈しない高松城に対して、近くの足守川の水を引き城の周囲を湖沼化した。これが有名な高松城の水攻めで、秀吉は毛利氏に対し所領10ヶ国の内7ヶ国(後5ヶ国)の割譲と宗治の切腹を迫った。しかし、毛利氏は5ヶ国割譲は認めても、宗治の切腹は受け入れなかった。 和議難航の最中に本能寺の変が勃発、毛利方より先に変報を入手した秀吉は領国の割譲の条件を緩和し、宗治の切腹をもって講和の締結を毛利方の安国寺の僧恵瓊(えけい)に急ぎ求めた。 宗治は一身の切腹によって主家の安泰と寵城者の生命の保全を懇請し、城外に小舟を浮かべ、秀吉側の検視を前にして従者と共に心静かに自刃した。 辞世に『浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して』としたためた(異説もある) その後、嫡子源三郎は隆景より景の字を賜り景治と名乗り、隆景に従い四国征伐・朝鮮半島の戦いに功績があり、四国・九州に領地を持ったが、隆景の死後は高松城に近い河辺庄(現岡山県真備町)に身を引き浪人となった。 関ヶ原の合戦後は、改めて毛利氏の重臣として迎えられ、野原村をはじめ数ヶ村に給領地を持った。この時に父宗治の菩提を弔うため、ここに墓を立てたもので、寛保元年(1741)の寺社由来(野原村抱の阿弥陀堂)に「清水様御先祖の御墓と申伝候」とあるがこれであろう

地理院地図

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2010年08月24日