天樹院-毛利輝元墓所

概要

天樹院

 ここ天樹院墓所は萩開府毛利輝元の墓所で、輝元と婦人及び、殉死者長井治郎左衛門の墓石三基があります。ここは以前輝元の本邸があったところで、彼の没後に天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられましたが、明治二年(一八六九)に廃寺となり墓所のみが残っています。

毛利輝元

毛利輝元卿は一五五三~一六二五安土桃山時代の大名。
天文二十二年(一五五三)正月二十二日毛利隆元の長男として生まれ、
母は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)、幼名は幸鶴丸、永禄六年(一五六三)父の急死によって家督を相続、祖父元就の後見をうけ、同八年元服し将軍足利義輝の一字を拝領して少輔太郎輝元と称す。元亀二年元就死没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐をうけて出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放し、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を入れるが、このころ京都を制し、播磨国に進出してきた織田氏勢力と接触する。天正四年五月領内の備後国鞆浦に逃れてきた前将軍足利義昭を奉じて織田氏に対抗、織田氏の武将羽柴秀吉が播磨国に追撃し、織田氏勢力に圧せられる。同十年六月備中高松城下(岡山市高松)で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。豊臣政権下に入っては四国出征・九州出征において共に先鋒をつとめ、同十六年上洛し、緊楽第を訪問、ついで内裏に参内し参議に任官される(安芸宰相)。天正十七年四月から太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名、本拠を吉田郡山城からここに移す。同十九年三月秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七か国および伯耆国三郡と備中国内で百十二万石の知行目録を与えられる。慶長二年(一五九七)に豊臣政権の五大老に列せられ、翌三年秀吉の死去にあたって秀頼の補佐を委託される。関ヶ原の戦いでは、自身は大阪西の丸にあって、西軍の総師とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国に減封された。同五年十月薙髪して隠居して法号を宗瑞また幻庵といった。同時に隠居し家督を六歳の秀就に譲る。同九年十一月長門国阿武郡萩指月山に築城して移る。寛永二年(一六二五)四月二十七日萩城内で死没。七十三歳、法名は天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士。

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2010年07月24日